2019年11月20日水曜日

第37回哲学ジャム@函館の報告

今月は19日(火)午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回は「哲学ジャム+(プラス)」として西田幾多郎の『善の研究』の一部を読んで意見交換をしました。西田自身の勧めに従い,第2編「実在」第1章「考究の出立点」を読んでみました。

第1章では「考究の出立点」として西田自身の哲学的立場を哲学史の中に位置づける試みがなされているので,確かに比較的理解しやすい。批判の対象を明示していないところもあるので,その辺りを説明しながら読み進めた。ここで彼の主張をまとめてみると次のようになるだろう。

1.世界観と倫理学とは切り離せない。
2.それらの知は一つである。
3.これまでの哲学は経験か思惟作用のどちらかから出発していたが,どちらも不十分。
4.経験も思惟作用も意識現象である。
5.知ることのできない対象を仮定せず,直接経験から出発しなけければならない。

一応第1章を読み終えたところで時間切れになってしまったので,残った疑問点は次回にまた考えることにした。

次回は12月17日(火)の予定です。

2019年11月8日金曜日

第36回哲学ジャム@函館の報告

第36回は10月22日(火)午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回も通常の哲学ジャムでしたが,話題が拡散して報告としてまとめることが出来ませんでした。

次回は11月19日の予定です。

2019年9月25日水曜日

第35回哲学ジャム@函館の報告

第35回は9月17日(火)午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回も様々な話題について意見交換が行われましたが,後で考えたことも含めて報告します。

参加者の一人が,前日の市民オーケストラ定期演奏会に団員として参加しており,聴きに出かけた参加者もいたので最初はその話から始まった。演奏する側としてはフランスもの(その日はフォーレの曲が2曲演奏された)の難しさ,聴く側としては抽象的な音楽をどのように聴けばいいのか,などかなり専門的な話になった。音楽鑑賞というのは作曲家の作曲過程を追体験することだという考えをMさんが紹介。この考え方は芸術鑑賞一般に当てはまると思うが,追体験と言ってもいろいろありうる。例えば作曲家になろうとしている青年の追体験は作曲理論に基づいた追体験に傾き,素人のそれは作曲家の人生を知ってその折々の体験を音楽に読み取るというものになりがちである。しかしそのような鑑賞はあくまでも間接的な聴き方になりはしないか。われわれがコンサートや美術館で直接見たり聴いたりしているものとの交感が第一なのであって,分析はその後でよい。「交感」というのは対象と主体の関係であり,演奏家と聴く側の関係である。その関係において「追体験」とはどういうものになるか。追体験という概念はあくまでも他者の体験が先にあって,それを後で別人が体験するという図式になっている。しかし作曲家の体験とは何か。作曲家の体験や意図が作曲され,演奏されるまでには,2重・3重の過程(翻訳)を経なければならない。自分の頭の中の音を楽譜に記譜可能な仕方に翻訳する(このの段階でもさらにいくつかの下位の段階に細分できるかもしれない)。その楽譜を見て演奏家が解釈し,音楽に翻訳する。さらに翻訳された音が音楽として鑑賞者に聴かれ,最終的な追体験となる。このような複雑な過程を経て得られる追体験とは何か。作曲家の原体験からは無限にかけ離れているようにも思われる。この図式は「交感」という概念には当てはまらないだろう。交感においては対象と主体という区別も本来ないのかも知れない。コンサート会場では確かに演奏する側と聴く側とが区別されるが,そこで弾き・聞かれる「音楽」は一つの融合したものになっている。響く音は一つの融合体であるが,弾く側も聴く側もそれぞれの翻訳をしているはずである。作曲家が指定した楽譜という縛りの中での演奏の自由と聴き方の自由。人間は何という複雑な娯楽を持っているのかと私などは感嘆する。

以上はジャムの後で考えたことだが,ジャムの時にはKさんが哲学と音楽については何か関係があるのかと質問されたので,古代のピュタゴラス派の話を少しした。宗教的な枠組みの中で数学の一部門としての音楽を魂の浄化の手段と考えたこと,数と事物の対応関係を考えたこと,数自体の神秘的な関係に魅せられていたことなど。他に音楽と関係の深い哲学者としてはショーペンハウアーやニーチェがいるが話すほどのことは知らないので指摘するだけだった。

他にもいろいろな話が出ましたが,報告としては以上とさせてもらいます。

次回の予定は10月22日(火・祝日)の予定です。

2019年8月24日土曜日

第34回哲学ジャム@函館の報告

第34回は8月20日午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回も様々な話題がありましたが,後で考えたことも含めてそれを列挙しておきます。

1.NHK「100分de名著」の「小松左京」についてMさんが感銘を受けたとのことでしばしその話になりました。Mさんが特に感銘を受けたのは『虚無回廊』とのことで,私は録画はしていたがまだ見ていなかったのでジャムの後に全4回を見た。私がよく読んだSF作家は海外ではR.A.ハインラインやJ.P.ホーガン,P.K.ディック,国内では筒井康隆ぐらいのものだったので,小松左京は読んでいなかった。そのうちにSFよりも哲学の方が面白くなってしまった。『虚無回廊』にAEという「人工実存(Artificial Existence)」が出て来るが,「実存」という限りでは人生の一回性が前提となるはずであり,さらに人間の肉体性が必然的な前提である。その限りではアンジェラEという人工実存にも「実存」というには足りない部分がある。私は録画を見ていなかったのでその場でこういう展開にはできなかったが,次回でまた話してみてもよい。

2.ちょうど初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」が報道された直後だったので,昭和天皇が何を考えていたかということにも話題が集中した。NHKの特集は,明治憲法下での君主が,昭和新憲法の下で象徴となることへの困難が端々に窺われる内容であった。その筋の専門家は別として一般には昭和天皇の肉声が聞けた気持ちがしてよかったと思う。意外に率直な物言いをしていたのだなとも思った。田島の記録が残ったのには,国の関与ではなく,その記録を残しておかねばならないと考えた身内の努力があったという話は,現在の政府の資料管理の杜撰さと比べて雲泥の差がある。こういうものは市民の努力に任せているのではなく,国が徹底的に管理して残さなくてはならない。

3.小中学校の教科書に古典が減っているという話。私は現代ものは読まなくてもいいというくらいの古典主義者なので困った流れだなと思った。単に古典的世界に浸かっていればいいというのではない。現代の情報は否応なしに入って来る。Kさんはそういうものに振り回されると言う。そういうときに古典は現在の自分を相対化するのに役立つ。外国語もその相対化に役立つが,会話程度で相対化はできない。外国語の学習を通して文化や考え方の違いを知ることが必要だ。ただし相対化されるだけでは,「いろいろあっていいじゃないか」という立場にとどまるだけかもしれない。しかしそこで初めて何がいいのか悪いのかを考える準備ができたということである。ここから「自分の思索」が始まると言ってよい。その自分の考えを鍛えるのが,例えばこの哲学ジャムという場である。

この他にもいくつか話題があったが,まとめとしては以上にしておく。

次回は9月17日(火)開催の予定です。

2019年8月2日金曜日

第33回哲学ジャム@函館の報告

第33回は7月23日午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回はあまりまとまった話にならず,第31回で読んだニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』を振り返ってみたり,その背景にあるキリスト教の話になったり,さらに日本の仏教の話になったり,やや議論が拡散した。時事的には参議院選挙直後だったり,「京アニ」の事件があったり,吉本の問題がマスコミに取り沙汰されていたが,哲学的な議論にはつながらなかった。もう少し主宰者(私)が議論をコントロールした方がよかったかもしれない。

次回は8月20日(火)午後6時半からの予定です。

2019年6月28日金曜日

第32回哲学ジャム@函館の報告

第32回は6月18日午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。前回のニーチェのことなど思い出しながら話し始めた。たまたま5月末に起きた登戸の事件の話になり,Tさんがテレビの報道を見て「死ぬなら自分だけで死ね」とつい口走ってしまったが,後でそんなことを口走った自分の考えの浅さを感じてしまったと言った。口に出す,出さないは別にして,Tさんのような反応はジャム参加者のほとんどが同じものだったようだ。しかし相手がどんな人であれ,「死ね」と言っていいのかどうか。昼のバラエティ番組では,ある落語家の同様な発言が問題になっていたこともあり,自殺へ向かう心境にある人には,自殺へと突き落とすような発言になってしまうというマスコミでの批判も確認した。この場は「哲学」ジャムなので,自殺に関する哲学的な考察としてカントを紹介した。自殺の禁止を人間の普遍的な義務とするカントは,他者に対しても人格として何らかの手段ではなく目的をみなさねばならないから,当然他者に「死ね」とは言えない。こんなことは誰でも知っているようなことだが,カントの凄さはこの義務を経験的な根拠から導き出していないということだ。つまり何ら経験的実質を含まない,理性のア・プリオリな形式的原理からこのような義務の概念を導き出しているということだ。この辺りの詳しいことは「講義」になってしまうのでジャムでは話さなかった。前回のニーチェもそうだったが,哲学の思考は必ず読者の考え方・生き方を問うことになる。またそうならないと読書する意味もない。ジャムで話されたことも同じであって,終わった後で自分一人になったときにどう考えるかが大事だと思う。

他者に向かって何かを言うときに自分にそれを言う資格があるかと問うことは必要なことではないか。その問う姿勢は「恥らい」あるいは「謙虚」という形で他者に感じ取られるもの,伝わるものだと思う。

次回は7月23日(火)の予定です。

2019年6月5日水曜日

第31回哲学ジャム@函館の報告

第31回は5月14日(火)午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回は「哲学ジャム+(プラス)」としてニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』から冒頭の「ツァラトゥストラの序説」のうち第1-5節,第10節を読んで意見を交換した。「序説」にはツァラトゥストラの教説の基本概念が散りばめられており(例えば,「没落」「舞踏」「幼子」「神は死んだ」「超人」「末人」「畜群」「正午」等々),ここだけでそれらの概念を理解することは難しい。しかしニーチェの詩的な文体や凝縮された比喩表現などを解きほぐしながら読むことに努めた。ニーチェの批判の矛先が最終的には自分に向かってくることに参加者が気付いてくれるを期待したが,どうだったか。

「没落」は「ツァラトゥストラの没落」と「人間の没落」とでは意味が違うのではないか。「末人」の「まばたき」とは自信の無さなのか,自慢げな様子なのか。など理解がわかれるところもあったが,それもニーチェの表現の独自性,比喩の明晰性と論理的な飛躍の織り成すアマルガムとも言える。

次回は6月18日(火)午後6時半からの予定。

2019年4月25日木曜日

第30回哲学ジャム@函館の報告

今回は4月16日(火)午後6時半から「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。主宰者を含め6名の参加がありました。以下,その模様を報告します。

Ksさんが文芸春秋5月号の東畑開人氏のエッセイ「深層くん,さようなら」をコピーしてきてくれたのでそれを読むことから始めた。その内容は大まかに次の通り。

かつて人間の心理を理解するために想定された「深層」は現代思想によって駆逐され,単なる動物だけが残った。深層と表層の区別はなくなり,「分人」という概念が現れた。男・父親・サラリーマン・ゴルファー・料理人という分人が一個人に同居しているという多重人格的な人間観だが,それらの分人を統一する「本当の自分」というものは想定しない。しかし「本当の自分」がないために不安を感じる人間もいて,そういう人はやはり深層的な「本当の~」を求めてしまうのではないか。

Mさんは「分人」という人間の捉え方がよくわからないと言う。個人に水平に切れ目を入れれば表層と深層が生まれるが,縦に切れ目を入れれば裂けるチーズのように個人は「バラバラにほどける」というのがわからないと。Mさんは恐らく,そのバラバラの個人を俯瞰的に見ているのでなぜバラバラになるのかという疑問だと思ったが,もしその人の全体像(これこそ本当のその人とも言えるが,そのような理解は放棄されている)を知らない場合,分人の部分的な総合像はその人の全体像にはならないし,知られていない分人は単に別人であろう。つまり樽を一個の樽としているタガが存在しないのだ。

哲学は現実を理解するために様々な「深層」や「超越」を想定してきた。しかし理性の超越的な適用はカントによって斥けられた。それでもそのような超越的な存在の想定は絶えることがない。それは理性という能力の本質に属する特性であることもカントが指摘したところである。先のエッセイでは「深層くんは…親密性に棲まう」と言っているが,人間が生きることに親密や安心を求める限り,超越的なものは生き延びるだろう。ニーチェはそのような人間の生き方を批判したと思われる。次回哲学ジャムはその点を考えてみるために「哲学ジャム+(プラス)」としてニーチェのミニ読書会をした上で意見交換をする予定。

次回は5月14日(火)午後6時半から「カポBAR@まるたまスクエア」で開催予定です。

2019年4月4日木曜日

第29回哲学ジャム@函館の報告

第29回は3月19日(火)午後6時半から「まるたま小屋」で開催されました。今回は主宰者を含めて5名の参加がありました。以下その模様を報告します。

KHさんがオスカー・ブルニフィエの「こども哲学」シリーズの一冊を見つけて来てくれたのでその一部を読んでみることから始めた。読んだところは確か「嘘をついてもいいか」というテーマだったと思うが,本の中では子供がそれぞれの意見に反論して行くというものだった。そのうち参加者が自分の意見を出し始め,ひとしきり議論となった。主宰者がカントも似たような議論をしていることを紹介した。

映画『女王陛下のお気に入り』の話から当時のヨーロッパの宗教的背景の話。キリスト教だけでなく,ユダヤ教やイスラム教との関係,西暦と元号の話,キリスト教と浄土真宗の類似性など,話が深まるというより,拡散していったのは主宰者としては反省点。

七飯町の小学校がなぜ「七重」小学校なのか,また七飯町に大沼の軍川の名が付いた踏切があるのはなぜかなどローカルな地名の話になった。ネットで調べられるものは調べてみたが,推測にとどまり,哲学的なテーマにも展開しなかったのでこの日はこれで打ち切りとした。

次回は4月16日(火)の予定。近々「哲学ジャム+」として議論のための題材を決めて話してみようと考えている。

2019年3月13日水曜日

第28回哲学ジャム@函館の報告

第28回は2月19日(火)午後6時半から「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回は主宰者を含めて6名の参加がありました。以下その内容を報告します。

いつものように雑談から始まった。ビゼー『カルメン』の新演出で衣装などは現代だがタバコ工場は変えられない。禁煙の圧力がここまで広まった時代にわざわざ現代風の演出をする意味があるのかというKSさんの意見。オペラの新演出はワーグナーやプッチーニでも行われるが,旧演出は作品の作られた時代を反映してもいる。私としてはかつてのヴィーラント・ワーグナー演出の象徴的な舞台が懐かしかったりする(もちろん生の舞台は見たことがない)。映画『ボヘミアン・ラプソディー』が流行っている。今なぜというところはわからないが,クィーンファンには堪らないようだ。私はクィーンファンとは言えないが,ラストのライヴエイドの場面は圧巻だった。さりげなくプッチーニ『トゥーランドット』の「リューのアリア」が流れていた場面があり,よく作り込まれた映画と感じた。

話のつながりは忘れたが,自閉症の磁気治療の話になり,本人にとって治ることは良いことなのかという疑問がMYさんから出された。自閉症によって自分の安定した世界を守っていた人間が,治療によって外の世界を感じ取れるようになるにつれ,感情的に不安定な状態になってしまうと言う。それは本人にとっていいことなのか,悪いことなのか。iPS細胞による再生医療も始まっているが,記憶というものもいずれ衰えなくなのだろうか。しかしその場合,思い出したくないことも保持されてしまうと困る。人間には忘れることも重要だ。

テレビで放送されたマルクス・ガブリエルの哲学とはどんな哲学なのかという質問があった。「世界は存在しない」とはどういうことか。この主張は正確には「世界は存在しないという根本命題は,そのほかすべてのものは存在するということを含む」(『なぜ世界は存在しないのか』)となっている。テレビは見たが,彼の哲学はほとんど知らないので,世界というものの理解もいろいろあり,ニュートンの物理的普遍空間やバークリ―の観念論的世界などを紹介した。

他にトランプのメキシコ国境の壁の話になり,MSさんがある程度共感するところがあると言う。外国人がたくさん入って来ることへの不安があるらしい。MYさんはそれはもう現実的な流れとなっていて戻ることはできないと言う。話はそこで終わってしまったが,後でMSさんの不安をもう少し掘り下げてみたらよかったかも知れないと考えた。そこには国家・民族という概念がいまやネットによって溶融し,さらに自己と他者の境界も曖昧になって来ているという事態があるかも知れないからだ。これは今後の話題としても良いだろう。

以上第28回の報告とします。次回は3月19日(火)の予定です。

2019年1月29日火曜日

第27回哲学ジャム@函館の報告

今年初めての哲学ジャムは1月15日(火)午後6時半より,カポBAR@まるたまスクエアで開催されました。参加者は私を含めて3名だったが,3時間近く取り留めのない話が展開した。その中で比較的まとまった話となったのは「型」についての話だった。かつては教師のタイプ,警官のタイプ,サラリーマンのタイプなど職種のタイプというのがイメージできたが,最近はできなくなったという意見が出た。そのこと自体は仕事による人間のタイプの固定化が少なくなったと積極的に捉えることもできるが,仕事のイメージあるいは境界が曖昧になるというのはいいことなのか。そのことを考える助けとなるかどうかわからないが,日本の伝統芸能や武芸では「型」というのが重視される。例えば能で「泣く」という所作をするときに,演者が気持ちを込めてしまうと台無しになると言われる。能の舞は型に終始するのであって,演者は心を空にしていなければならないそうだ。茶の湯の所作も然り。象徴的なのは能の舞は面を付けるが,それは演者の顔を隠すことによって無駄な情報を排除しているということだ。だから直面(ひためん)は難しい。居合などでも型を身に付けると刀を持っていることさえ意識しなくなる。体の一部になるのだ。こう考えて来ると,一つの技能として完成させることが可能な技術は型として習得可能になる。しかし先のタイプの例はどうだろうか。教師の仕事,警官の仕事は型として習得可能だろうか。警官の仕事はそのような領域もあるかも知れないが,教師の仕事やサラリーマンの仕事がすべてパターン化できるとは思われない。むしろそのような職種のタイプがイメージできた時代というのがある意味で「幸福な」時代だったかも知れない。しかし教師にしろ,サラリーマンにしろ,評価されるべきは型あるいはイメージではなく,その内実なのだから外見やイメージで固定化できなくなった現代の方が,その仕事の内実を看て取り易くなったとも言える。

『ツルネ』というアニメがある。高校弓道部の話なのだが,弓道の奥深さとライバルたちの同性愛的な関係が妙に気になって,最終回まで見てしまった。上の話とつなげると,的に当てようとすればするほど外してしまう。矢が勝手に離れて行くまで待つなどと言われる。これはやはり型の極致だろう。そのときは弦音(つるね)も見事に響くということだ。個人的には弓もやってみたかったが,居合で終わってしまった。最近の話では大阪なおみの全豪オープン決勝戦もそのような精神状態を教えてくれる。2セットを取られた後の心の立て直しは自他の強さも弱さも認めたうえでの無心が無表情となって現れていた。その後の彼女の揺るがぬプレイは凄かった。こういうスポーツの場合は体勢(つまり型)を崩されないような身体作りが必要で,彼女もオフの時にはそういうトレーニングをしていたと言われている。それにメンタルトレーニングも含まれていることは言うまでもない。

『ツルネ』と大阪なおみはジャムで話されたことではないが,思いついたので書き留めておいた。以上で今回の報告とします。

2019年1月2日水曜日

第26回哲学ジャム@函館の報告

今年最後の哲学ジャムの模様を報告します。

以前絵本の話をしたときにShel Silverstein『大きな木(The Giving Tree)』を村上春樹が新たに訳したと聞いた。その本の旧訳(本田錦一郎)と新訳(村上)を参加者が持って来てくれたのでみんなで回し読みしながら内容について,訳について話してみた。みなさんは本田訳がいいと感じていたようだが,私は村上訳の方がいい。英語原文に忠実ということもあるが,感情過多にならない文体の方に好感が持てる。内容については,「与える行為」をどう解釈するかに議論が集中した。木が自分を切り倒してカヌーを作らせ,木はそれで幸せだったとした後で,「本当にそうだろうか」と疑問に訳した本田訳と「そんなはずはない」と否定した村上訳とを比較すると,村上訳の方がシルヴァスタインの主張が明確に出ている。与え尽くして切り株としてしか残らなかった木が「幸せなはずがない」とすると彼女(木は原文ではshe)の「与える行為」とは彼女自身にとって,あるいは少年にとってどんな意味を持っていたのか。ただ与えることしかしなかったため少年は駄目な大人になってしまった。与えるという行為を母性愛の表れと見る場合,そのような無条件的な愛は子供のためになるのか。与える側の木にしても,与えることによって何らかの喜びを得ている(「それで木は幸せだった」)のだから,一種の自己満足であり,無償の愛とは言えない。等々,いろいろ意見が出された。たまたま今年のNHKの大河ドラマが『西郷どん』だったので西郷隆盛の無私の精神との比較もなされた。「大きな木」と同じように,将来の日本のために私利私欲を捨てて働いたが最後は逆賊として死んだ西郷もやはり幸せだったはずが「ない」のだろうか。

すべてを与えた木が「幸せなはずがない」と言うとき,その幸せの内容はどのようなものが想定できるか。自分に喜びのほか何も残らないのは幸せではないのか。では何が残れば幸せなのか。難しい。一方,自己満足的な喜びさえあれば幸せなのだとした場合,西郷も幸せだったと言えるだろう。しかしその場合その幸せは自分だけの善であり,木であれ,西郷であれ,それぞれの行為の及ぶ範囲すべての善とは言えない。木の与える行為が少年にとっても無条件に善とは言えない。西郷の行為も然り。

『西郷どん』では西郷の女性との関係もかなり丁寧に描かれていた。ドラマではその時代のそれぞれの女性としての強さが描かれていたと思う。男女に平等に接した(らしい?)西郷をもってしても有能な女性を活用することができなかったのは時代的に仕方がないとしても,現代の日本社会はなぜ女性を十分に活用できないのか。外国人を労働力として活用する前に国内の女性の労働力を活用すべきではないか。女性を十分に活用できない社会で外国人を十分に活用できるとは思われない。

概ね以上のような意見が交わされました。次回の開催予定は1月15日(火)です。