2019年1月29日火曜日

第27回哲学ジャム@函館の報告

今年初めての哲学ジャムは1月15日(火)午後6時半より,カポBAR@まるたまスクエアで開催されました。参加者は私を含めて3名だったが,3時間近く取り留めのない話が展開した。その中で比較的まとまった話となったのは「型」についての話だった。かつては教師のタイプ,警官のタイプ,サラリーマンのタイプなど職種のタイプというのがイメージできたが,最近はできなくなったという意見が出た。そのこと自体は仕事による人間のタイプの固定化が少なくなったと積極的に捉えることもできるが,仕事のイメージあるいは境界が曖昧になるというのはいいことなのか。そのことを考える助けとなるかどうかわからないが,日本の伝統芸能や武芸では「型」というのが重視される。例えば能で「泣く」という所作をするときに,演者が気持ちを込めてしまうと台無しになると言われる。能の舞は型に終始するのであって,演者は心を空にしていなければならないそうだ。茶の湯の所作も然り。象徴的なのは能の舞は面を付けるが,それは演者の顔を隠すことによって無駄な情報を排除しているということだ。だから直面(ひためん)は難しい。居合などでも型を身に付けると刀を持っていることさえ意識しなくなる。体の一部になるのだ。こう考えて来ると,一つの技能として完成させることが可能な技術は型として習得可能になる。しかし先のタイプの例はどうだろうか。教師の仕事,警官の仕事は型として習得可能だろうか。警官の仕事はそのような領域もあるかも知れないが,教師の仕事やサラリーマンの仕事がすべてパターン化できるとは思われない。むしろそのような職種のタイプがイメージできた時代というのがある意味で「幸福な」時代だったかも知れない。しかし教師にしろ,サラリーマンにしろ,評価されるべきは型あるいはイメージではなく,その内実なのだから外見やイメージで固定化できなくなった現代の方が,その仕事の内実を看て取り易くなったとも言える。

『ツルネ』というアニメがある。高校弓道部の話なのだが,弓道の奥深さとライバルたちの同性愛的な関係が妙に気になって,最終回まで見てしまった。上の話とつなげると,的に当てようとすればするほど外してしまう。矢が勝手に離れて行くまで待つなどと言われる。これはやはり型の極致だろう。そのときは弦音(つるね)も見事に響くということだ。個人的には弓もやってみたかったが,居合で終わってしまった。最近の話では大阪なおみの全豪オープン決勝戦もそのような精神状態を教えてくれる。2セットを取られた後の心の立て直しは自他の強さも弱さも認めたうえでの無心が無表情となって現れていた。その後の彼女の揺るがぬプレイは凄かった。こういうスポーツの場合は体勢(つまり型)を崩されないような身体作りが必要で,彼女もオフの時にはそういうトレーニングをしていたと言われている。それにメンタルトレーニングも含まれていることは言うまでもない。

『ツルネ』と大阪なおみはジャムで話されたことではないが,思いついたので書き留めておいた。以上で今回の報告とします。

2019年1月2日水曜日

第26回哲学ジャム@函館の報告

今年最後の哲学ジャムの模様を報告します。

以前絵本の話をしたときにShel Silverstein『大きな木(The Giving Tree)』を村上春樹が新たに訳したと聞いた。その本の旧訳(本田錦一郎)と新訳(村上)を参加者が持って来てくれたのでみんなで回し読みしながら内容について,訳について話してみた。みなさんは本田訳がいいと感じていたようだが,私は村上訳の方がいい。英語原文に忠実ということもあるが,感情過多にならない文体の方に好感が持てる。内容については,「与える行為」をどう解釈するかに議論が集中した。木が自分を切り倒してカヌーを作らせ,木はそれで幸せだったとした後で,「本当にそうだろうか」と疑問に訳した本田訳と「そんなはずはない」と否定した村上訳とを比較すると,村上訳の方がシルヴァスタインの主張が明確に出ている。与え尽くして切り株としてしか残らなかった木が「幸せなはずがない」とすると彼女(木は原文ではshe)の「与える行為」とは彼女自身にとって,あるいは少年にとってどんな意味を持っていたのか。ただ与えることしかしなかったため少年は駄目な大人になってしまった。与えるという行為を母性愛の表れと見る場合,そのような無条件的な愛は子供のためになるのか。与える側の木にしても,与えることによって何らかの喜びを得ている(「それで木は幸せだった」)のだから,一種の自己満足であり,無償の愛とは言えない。等々,いろいろ意見が出された。たまたま今年のNHKの大河ドラマが『西郷どん』だったので西郷隆盛の無私の精神との比較もなされた。「大きな木」と同じように,将来の日本のために私利私欲を捨てて働いたが最後は逆賊として死んだ西郷もやはり幸せだったはずが「ない」のだろうか。

すべてを与えた木が「幸せなはずがない」と言うとき,その幸せの内容はどのようなものが想定できるか。自分に喜びのほか何も残らないのは幸せではないのか。では何が残れば幸せなのか。難しい。一方,自己満足的な喜びさえあれば幸せなのだとした場合,西郷も幸せだったと言えるだろう。しかしその場合その幸せは自分だけの善であり,木であれ,西郷であれ,それぞれの行為の及ぶ範囲すべての善とは言えない。木の与える行為が少年にとっても無条件に善とは言えない。西郷の行為も然り。

『西郷どん』では西郷の女性との関係もかなり丁寧に描かれていた。ドラマではその時代のそれぞれの女性としての強さが描かれていたと思う。男女に平等に接した(らしい?)西郷をもってしても有能な女性を活用することができなかったのは時代的に仕方がないとしても,現代の日本社会はなぜ女性を十分に活用できないのか。外国人を労働力として活用する前に国内の女性の労働力を活用すべきではないか。女性を十分に活用できない社会で外国人を十分に活用できるとは思われない。

概ね以上のような意見が交わされました。次回の開催予定は1月15日(火)です。