2018年11月29日木曜日

第25回哲学ジャム@函館の報告

今回は11月20日(火)午後6時半から「カポBAR in まるたまスクエア」で開催されました。

今回も話は様々だった。音楽と数学の関係。さらに音楽と宗教の関係などを中心に話されたが,報告としてまとめ切れませんでした。次回は12月18日(火)の予定です。

2018年10月18日木曜日

第24回哲学ジャム@函館の報告

今回は10月16日(火)午後6時半から「カポBAR in まるたまスクエア」で開催されました。

今回のテーマは,主宰者を含めて,今夜の参加者数名が出掛けた「詩人・吉増剛造講演会」の感想を軸に,詩と哲学の関係を巡ってということになるだろう。詩と哲学の対立については哲学という営みの成立に関わる問題としてプラトンが『国家』において周到な議論をしている。ジャムで話されたことでもないので,ここで詳述はしないが,この報告に関係する限りで説明を加えておく。先ずはプラトンが専ら文芸批判の対象としているのは「ギリシアを教育してきた」とも言われるホメーロスであること,次に批判の視座はイデア論にあること,である。批判の対象がホメーロスであるということは,ホメーロスの叙事詩が当時のギリシア人に対し生きる上での規範を提供していたということにある。『イーリアス』や『オデュッセイア』に描かれる英雄たちがギリシア人たちの模範となっていたということである。だから同じ詩とは言え,古代ホメーロスの詩と現代の吉増剛造の詩とはほとんど共通点がないと言ってよい。敢えて共通点を挙げるとすれば,詩によって喚起されるもの(ホメーロスでは英雄たちの活躍,吉増剛造では詩となって現れて来る以前の原初的な感動など)が特定の個別的なもの,あるいは私的なものであるということだ。例えばアキレウスの活躍を聴いた聴衆はそれを自分の模範として戦場ではそのように振る舞いたいと思うだろう。しかしそれはあくまで個別的な行動規範でしかない。一方吉増剛造の詩を読んで読者は,吉増剛造が体験した私的な感動を,詩を介して追体験する。この追体験は人によって様々であるほかなく,したがってそれぞれまた私的な体験となる。言葉は一般的なものだが,エクリチュールの人・吉増剛造は様々な表記を駆使して読者の追体験をさらに拡散して行くように仕立てている。エクリチュール(書くこと)とレシタシオン(朗誦すること)の違いこそあれ,歌われ・書かれた個別的・私的な体験は聴衆や読者の中でまた別の個別的・私的な体験となる。プラトンの文芸批判の目的はおそらくこのような閉鎖的な体験の領域に突破口を穿つことだった。イデアは例えば美の絶対的規範でありながら,その美の認識は個別的・私的であり得る。それゆえ美を巡っての問答・対話を成立させる根拠でもある。プラトンはこのような立場からホメーロスを初めとする詩人たちをその「理想国」から追放し,哲学の優位を主張した。

しかし私たちが住んでいる国はもちろん「理想国」ではない。そこでは詩を含めた,現在は芸術と呼ばれている営みは哲学とともに既成の見方・考え方に穴を穿つべく働き得るだろう。吉増剛造の講演会は面白かったが,何が面白かったかわからなかったという感想があった。しかしレシタン(朗誦する人)としての吉増剛造の講演の成否は聴き手に刺激を与えたかどうかにあり,面白かったという感想は講演が成功したということだ。その刺激が何であったのか,自分にとってどんな意味があるのかは今度は哲学の仕事かもしれない。その意味を探る試みをここでしてみたつもりである。その試みを今回の報告に代える。

次回の哲学ジャムは11月20日(火)の予定です。

2018年10月6日土曜日

第23回哲学ジャム@函館の報告

今回は「哲学ジャム+」として,ソポクレス『オイディプス王』(藤沢令夫訳)の一部を読んで意見交換をしました。読んだのは,第一エペイソディオン(エピソード)の冒頭からテイレシアス退場までのオイディプスとテイレシアスの問答。人間並みの知者と神的な知者との断絶の深さをみなさんがどう見るかというところに主宰者の興味がありました。テイレシアスは「わがうちに宿る真理こそ,この身を守る力なのだから。」(356行),「いやしくも真理というものが,何ほどかの力をもつかぎりは。」(369行)と語るが,Kさんから,「真理」と言われると違和感がある,「真実」の方が近いのではないかという疑問が発せられた。テイレシアスの言う「真理」の原語は「アレーテイア」あるいはその形容詞形だが,訳としては「真理」でも「真実」でも可能だ。Kさんが「真実」の方が近いと感じたのは,少し前に「真相」と訳されていること,つまり「実際に起こったこと」という意味で取ったからかもしれない。しかし「真理」となるとその出来事がなぜ起こったのかという原因をも含む意味合いがあるように思われる。テイレシアスの知はそのような真理を含む知であるが,オイディプスの知はあくまで人間並みの推理の知にとどまる。そういう2種の知の断絶が「真理」という訳に込められているように思われる。

内容については以上のことなどが話されたが,主宰者として意外だったのは語源的な説明がみなさんにとっては新鮮だったということ。プロロゴス(序)がプロローグの,エペイソディオン(幕・場)がエピソードの,コロス(歌舞団)がコーラスの,オルケストラ(歌舞団の舞台)がオーケストラの語源だということを知って,みなさんは自分たちがよく口にする言葉が遠く古代に繋がっているということに感慨深げな様子でした。

以上第23回の報告とします。次回は10月16日(火)の予定です。

2018年9月10日月曜日

第23回哲学ジャム@函館開催のお知らせ

第23回哲学ジャムの日程が決まりましたのでご案内します。

日時:9月18日(火)午後6時半より
場所:元町「カポBAR in まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は「哲学ジャム+(プラス)」としてミニ読書会をし,その後で意見交換をします。読書会ではソポクレス『オイディプス王』の一部を読みます。テクストはコピー代実費で主宰者が用意します。参加費は無料ですが,会場を提供してくださる「カポBAR in まるたまスクエア」のメニューのうち,いずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)

2018年8月23日木曜日

第22回哲学ジャム@函館の報告

哲学ジャム@函館は前回から場所は同じ「まるたまスクエア」ですが,先月からここに入った「カポBAR」さんの料理や飲み物を出していただいています。前はアルコールのメニューがなかったことと,私を含めて車で参加される方が多かったこともあり,酒を飲みながらのジャムは全く頭にありませんでした。「カポBAR」さんになってからメニューにワインなどアルコールもあり,持ち込みもできるということで,今回は哲学ジャム@函館初めてのアルコール可のジャムとなりました。プラトンに『饗宴』という対話篇もあり,酒を交わしながらの意見交換もまた,主宰者としては楽しみと不安が入り混じった気持ちで迎えました。主宰者も今日は飲もうと思っていましたが,雨模様となり,車での出席となったので飲むのは次回の楽しみとなりました。

みなさん「カポBAR」の新たなメニューと持ち込みの日本酒やノンアルコールのブドウジュースなどを楽しみながら何を話すかということになった。前回の報告のハードコピーに目を通しながら質問を受けてみる。報告の中でニーチェ『悲劇の誕生』の引用があったが,彼の悲劇の捉え方,ギリシア悲劇そのものへと質問が集中した。私のできる範囲内で説明した上で,ギリシア悲劇が生まれる母胎としてのギリシア神話の話となり,ギリシア神話が後世の文学の想像力の源ともなっているという話に広がった。有名なところではシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』はローマの詩人オウィディウスの『ピュラモスとティズベー』の翻案であり,さらにジェローム・ロビンス原案・バーンスタイン作曲の『ウエスト・サイド物語』は舞台をニューヨークにした翻案物である。三島由紀夫の『潮騒』はロンゴスの『ダフニスとクロエ―』に着想を得ている。映画『マイ・フェア・レディ』の原型はギリシア神話のピュグマリオンにあり,さらにホフマンの描く人形オランピアの造形にも影響しているだろう。他にも枚挙にいとまがない。

以上哲学というよりは文学の話になってしまったので次回は「ジャム+(プラス)」として,ギリシア悲劇の傑作,ソポクレス『オイディプス王』の一部を読んで意見交換をするということになりました。

次回開催の予定は9月18日(火)の予定です。

2018年8月14日火曜日

第22回哲学ジャム@函館 開催のお知らせ

第22回哲学ジャム@函館の日程が決まりましたのでご案内します。

日時:8月21日(火)午後6時半より
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は通常の哲学ジャムです。当日参加者の皆さんが持ち寄られたテーマから一つ・二つを選び,意見交換をします。参加費は無料ですが,会場を提供してくださる「カポBAR in まるたまスクエア」のメニューのうち,いずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めて参加される方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)

2018年7月26日木曜日

第21回哲学ジャム@函館の報告

今回のテーマは「人はなぜ熱狂するのか」。ワールドカップは日本代表の予想外の活躍で寝不足になるくらいに盛り上がったようだが,ほとんどの試合を見てしまった私も含めて「たかが」ゲームになぜ私たちは熱狂するのか。サッカーに限らずスポーツ観戦にはそのような「熱狂」が伴う。スポーツ観戦以外ではどうだろうか。いわゆる「追っかけ」の心理は「熱狂」とは違うのだろうか。スポーツのチームを応援する場合と特定の選手を応援する場合とでは違うように,AKBのファンとそのなかの特定の人間のファンとでは違うだろう。特定の選手やアイドルを応援の対象とする場合はファンの側の好みや興味によって感情移入や独占欲の対象となる。スポーツチームやアイドルグループの場合,あるいは日本代表の場合には嗜好や趣味,地域性などが応援の強度に関わって来るだろう。ここまでスポーツの応援やファンの心理に話が行ってしまったが,話を「熱狂」ということに戻すと,それは現場に行って観客となるときの「熱狂」を考えてみるのが本筋ではないかということになった。

大勢が集まって何かに熱狂するというと,洋の東西を問わず,お祭りを挙げることができる。2002年の日韓共同開催のワールドカップの際に,神戸で行われたスウェーデン対ナイジェリアの試合を見に行ったが,まさにお祭りだった。

古いところではギリシア悲劇もまた祭祀の一環として開催されたものであり,アリストテレスが『詩学』でその効用について次のように言っている。

「あわれみと恐れをひきおこすことによって,その種の諸感情の浄化(カタルシス)を達成する」(藤沢令夫訳)

「カタルシス」は「浄化」や「吐しゃ」など解釈によって訳は異なるが,心中にわだかまったものを吐き出すか,浄化するかの違いであろう。

近いところでは,ニーチェがアッティカ悲劇をアポロン的造形芸術とディオニュソス的音楽の融合と見た『悲劇の誕生』でベートーベンの第九交響曲を次のように評している。

「ベートーベンの『よろこび』の頌歌を一枚の画に変えてみるがよい。そして幾百万の人が恐怖におそわれて塵の中にひれふす時も,ひるむことなく自分の想像力振い立たせてみるがよい。そうすればディオニュソス的なものに近づくことができるのだ。今や奴隷は自由人となる。今や,やむをえぬ必要や気まぐれや「厚かましいしきたり」が人間同士のあいだに定めた,一切の硬直した憎むべき制限は破れる。今や,宇宙調和の福音に接して,すべての人はめいめい,その隣人と結びあい,和解し,とけあっていると感じるばかりでなく,まるでマーヤのヴェールもひきちぎれてしまって,ぼろぼろになったまま,神秘的な根源的一者の前にひるがえっているすぎないかのように,ただ一体と感じるのである。歌と踊りによって,人間はより高い共同体の一員であることを表明する。彼は歩むことや話すことを忘れてしまい,踊りながら空高く舞いあがろうとする。その身振りには魔術のとりこになったことがあらわれている。」(秋山英夫訳)

「マーヤのヴェール」とはもともとはウパニシャッドで「個体化の原理」を示す言葉を,ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』の中で用いたようで,ニーチェはそれをここで援用している。つまり「第九」の描く世界は人々が個体化の原理を破り,より高い共同体の一員として一体となる理想世界であるというのである。しかし忘れてならないのはその状態が「陶酔」と「忘我」によって達成されるということだ。サッカースタジアムや野球場で熱狂的に応援している人々はまさにそのようにして個体化の苦の世界を忘れ,他者との一体感の中で陶酔しているということになる。そしてこの陶酔状態はおそらく脳の中に快感物質を放出しているだろうから,再びその状態を味わおうとする「魔術のとりこ」になっていると言ってよい。

ニーチェの話はここで補足したものだが,今回はほぼ以上のようなことが話された。

2018年7月9日月曜日

第21回哲学ジャム@函館開催のお知らせ

第21回哲学ジャム@函館開催の日程が決まりましたのでご案内します。

日時:7月17日(火)午後6時半より
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は通常の哲学ジャムです。当日持ち寄られたテーマから一つ・二つを選んでそれについて語り合います。参加費は無料ですが,会場を提供してくださる「まるたまスクエア」のメニューのうち,いずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年 (080-3117-2990)

2018年6月27日水曜日

第20回哲学ジャム@函館の報告

今回は前回読んだダンテ『神曲・地獄篇』第26歌のオデュッセウスの話について意見を交わそうと考えていたが,参加者が少なかった(主宰者を入れて5名)ので,特にテーマを決めずに話すことにした。『神曲』に関しては,異教徒までキリスト教の観点から断罪されているのは納得がいかないというKさんの意見。そこからキリスト教以前のユダヤ教やエジプトの宗教へと話題が展開し,もともと多神教であったエジプトの宗教はアメンホテプ4世の治世にアテン神を祀る一神教となったが,彼の死後ツタンカーメンの時代にまた多神教のアメン信仰へと回帰したこと,ユダヤ教はモーゼによる出エジプトから始まることなどが話された。ここから現在のエルサレムの状況の話に移り,さらに一神教ではない仏教に宗教戦争はあったのかという話になった。私には専門外の話なので,まとめることもできないが,一向一揆や法華一揆などをみると仏教徒もそれほど平和的とは言えないようだ。不寛容な今の時代に非暴力・不服従を貫いたガンジーの姿勢には見習うところがある。

この日はサッカー・ワールドカップの日本初戦があったのでジャム終了後急いで帰って観戦したが,すでに一点リードし,コロンビアは一人退場になっていて驚いた。今回のワールドカップは少し長く楽しめそうだ。

ということで次回は7月17日(火)に開催予定です。

2018年6月12日火曜日

第20回哲学ジャム@函館開催のお知らせ

第20回哲学ジャム@函館開催の日程が決まりましたのでご案内します。

日時:6月19日(火)午後6時半より
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は通常の哲学ジャムですが,テーマは前回読んだダンテ『神曲』のオデュッセウスの話について考えてみたいと思っています。参加費は無料ですが,会場を提供してくださる「まるたまスクエア」のメニューのうち,いずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年 (080-3117-2990)

2018年5月18日金曜日

第19回哲学ジャム@函館の報告

今回は「哲学ジャム+」としてダンテ『神曲』「地獄篇」から第1歌・第3歌の冒頭・第26歌を山川丙三郎訳で読みました。時代的にも文化的にも遠い人物・作品なので,読書会の前にダンテの生涯と『神曲』について簡単に説明した。ダンテ自身については詩人でありながら政治家でもあったこと,哲学的素養も深かったこと,『神曲』についてはテルツァ・リーマ(三韻句法)という技法を原文を参照しながら説明し,ロベルト・ベニーニの朗読を聞いてみたりした。

山川訳はたまたま主宰者が初めて『神曲』を知った時の訳だったのでテクストとして使わせてもらった。格調高い名訳だと思うのだが,文語なのでみなさん読み難いようだった。前回,「冒険」という話題が出て,『神曲』を読んでみることになったのだが,この日は予定の第26歌までは読んだのだが,内容説明をしていたら9時を過ぎてしまったので意見交換は次回に持ち越しとなった。

今回,冒険と『神曲』を結び付けるきっかけとなったのは村松真理子『ダンテ『神曲』』を読んでいたからだ。その中でユダヤ系イタリア人の作家プリモ・レーヴィの『もしこれが人間ならば』の「ウリッセの歌」という章が紹介されていた。ウリッセとはオデュッセウスのイタリア名である。主人公「私」がアウシュビッツと思われる収容所内で若者と知り合い,たまたまイタリア語を教えることになるのだが,そのうち『神曲』「地獄篇」第26歌のウリッセの話が「私」に生々しく迫ってくる。この話を全て思い出したら命の綱である「今日のスープ」を犠牲にしてもいいとまで思う。レーヴィの収容所体験と『神曲』のウリッセの話がどのように結びついているのか,まだよくわからないが,「私」がウリッセの話に何らかの希望を見い出したことは確かだろう。その希望とは何か。次回はその点について今回と同じ「冒険」というテーマで話してみたい。

次回は6月19日(火)午後6時半からの予定です。

2018年5月7日月曜日

第19回哲学ジャム@函館のお知らせ

第19回哲学ジャム@函館の日程が決まりましたのでご案内します。

日時:5月15日(火)午後6時半より
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は哲学ジャム+(プラス)として先にミニ読書会をし,その後で意見交換をします。読むのはダンテ『神曲』「地獄篇」から第1歌・第3歌・第26歌です。資料はコピー代実費で主宰者が用意します。なお,参加費は無料ですが,会場を提供してくださる「まるたまスクエア」のメニューのうち,いずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)

2018年4月27日金曜日

第18回哲学ジャム@函館の報告

今回はまとめ切れなかったので報告はなしとさせてもらいます。ただ議論の途中で,冒険する人はなぜ冒険するのかという話になり,ふとダンテ『神曲』に地獄でダンテがオデュッセウスに会う話があったことを思い出した。そこでオデュッセウスは世界を知り尽くしたいという自らの熱情を語り,部下を道連れに海の藻屑となったと語る。この話を次回のジャムで読んでみることにした。したがって次回は哲学ジャム+(プラス)となります。ダンテ『神曲』「地獄篇」第26歌を中心に,第1歌や第3歌の一部を読み,それについて話し合ってみたいと思います。次回は5月15日(火)午後6時半からの予定です。

2018年4月13日金曜日

第18回哲学ジャム@函館開催のお知らせ

第18回哲学ジャム@函館の日程が決まりましたのでご案内します。

日時:4月17日(火)午後6時半より
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は通常の哲学ジャムです。話し合いたいテーマをお持ち寄りください。その時の成り行きでテーマを選びたいと思います。参加は無料ですが,会場を提供してくださる「まるたまスクエア」のメニューのうち,いずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)

2018年3月28日水曜日

第17回哲学ジャム@函館の報告

今回の話の始まりは流行りの「忖度」。一応『広辞苑』の意味を引いておく。「他人の心中をおしはかること。推察。」今話題の状況に当て嵌めれば,「官僚が政治家の心中をおしはかる」こととなるが,ことは「おしはかる」だけでは終わらず,必ず相手の意に沿う行動へとつながる。「忖度」だけで済まないのが問題だ。

この話題を提案したAさん・Chさんには,ある組織の中でのメンバー内の「忖度」の在り方が風通しのいい意思疎通を阻害しているという不満があるようだった。しばらくその実情の話を聞かせてもらった。今の安倍一強の政治状況と似たような「ベテラン一強」の状況があり,民主的な合議制が機能していないという印象を受けた。民主制の基礎としての地方自治,さらにその基盤としての諸組織の民主的な合議制が機能しなければ,国の民主制が機能しないのは当たり前だ。民主的な合議制の前提は何か。

1.言論の自由
2.議決事項は基本的に覆せないこと
3.議事および議決事項の記録と公開

これらの前提のさらに基本前提として,これらの前提をルールとして公開し,関係者の全員がそれをルールとして認めるという合意がなければならないだろう。こういうルールが今の日本社会の隅々まで行き渡っているかどうかは疑問だ。むしろ悲観的と言わなければならない。しかし悲観的ということと,絶望することとは別だ。「決して絶望しない悲観主義」というのが真の現実主義ではないか。

今回の報告もまとめにくい話題だったが,ジャムで触発されたことをもとにちょっと考えたことをまとめてみた。

2018年3月12日月曜日

第17回哲学ジャム@函館開催のお知らせ

第17回哲学ジャム@函館開催の日程が決まりましたのお知らせします。

日時:3月20日(火)午後6時半より
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は通常の哲学ジャムです。話し合いたいテーマをお持ち寄りください。参加費は無料ですが,会場を提供してくださっている「まるたまスクエア」のいずれか一品のオーダーが必要です。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)

2018年3月1日木曜日

第16回哲学ジャム@函館の報告

第16回は異常な積雪と冷え込みの中,開催されましたが,車の事故などで来られなかった方もあり,私も入れて6名でした。前回の報告を見ながら,さらにその説明をしたり,ちょうど冬季オリンピックが開催中だったので「勝つ」とはどういうことかについて考えてみました。「勝つ」についてはその場ではうまく説明できないことがあったので,ここで整理してみる。競技者は「他者に勝つ」ことを直接の目的にするだろうが,そのためには「自分に勝つ」ということが必要になることは羽生結弦選手の例を見てもわかる。「自分に勝つ」という場合,勝つのも負けるのも自分であるが,負ける自分は様々な要因(練習不足・会場の雰囲気・勝ちたいという気持ちの弱さなど)で実力を出せない状態になっている。他方,勝つ自分はそういった要因を乗り越えているという自信を持っている。最終的には自分を信じることができるということが「自分に勝つ」ということになるだろう。

ところで哲学的には古来「意志の弱さ」ということをどう考えるかという問題があった。最初にこの問題に取り組んだのはプラトンだと思われるが,プラトンは『プロタゴラス』篇で「悪いと知りながら快楽に負けて悪をなす」という言説に含まれる矛盾を分析している。対話者ソクラテスは快楽主義的立場に立って「善=快,悪=苦」と考えると,先の言説は「悪いと知りながら善に負けて悪をなす」と言えるが,結果的に悪を行うのだから比較される善はその悪より弱いのに,その弱い善に負けるというのはおかしな話だというような議論をする。さらに善悪を快苦に置き換え「苦と知りながら快に負けて苦をなす」という方は,結果的に苦を身に受けたのだから快よりも苦が大きかったのに,目前の快の方が大きく見えたために快楽計算を誤ったのだと言う。つまり「意志の弱さ」と言われる現象は快楽の計量術を持たないという一種の無知に基づく現象だと結論する。『プロタゴラス』篇の時点でプラトンにとって「意志の弱さ」という問題は疑似問題ということになる。しかし「ソクラテス以上の知者はいない」と言われたソクラテスが無知の立場に立つ以上,われわれが知を標榜することはできない。「悪と知りながら」と言えない以上,また正確な計量術を持たない以上,「意志の弱さ」とはわれわれ人間の現実である。アリストテレスはその現実を見据えた考察を『ニコマコス倫理学』で展開しているが,ここで紹介する力は私にはない。

この日の哲学ジャムでは最後に「終活」の話になったが,それも「始末しなければならないとわかっているのだが始末できないものがある」というような話になった。日常の至る所で同じような言説が語られている。意志というものが脳の物理的な反応よりも後に生じるという研究もあり,その場合われわれは盲目的な身体的意志を後から意識化していることになる。そうすると「始末しなければならないとわかっている」のは幻想,あるいは後考えであり,始末しないのを選んでいるのが本当の意志ということになるのか? それについてはまた考えてみたい。

以上第16回の報告とします。次回は3月20日(火)の予定です。

2018年2月12日月曜日

第16回哲学ジャム@函館開催のお知らせ

第16回哲学ジャム@函館開催をお知らせします。

日時:2月20日(火)午後6時半から
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は通常の哲学ジャムです。みなさんそれぞれ話してみたいテーマを持ち寄って来てください。前回深められなかった点,よくわからなかった点を改めて考えてみたいというものでもいいですね。参加費は無料ですが,会場を提供してくださっている「まるたまスクエア」のいずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)

2018年2月8日木曜日

第15回哲学ジャム@函館の報告

今回は「哲学ジャム+」の第3回目。第1回はプラトン『饗宴』,第2回はデカルト『省察』を読んで来たが,第3回はカントの『純粋理性批判』の序文の一部を読んでみることにした。序文も第1版への序文と第2版への序文があるが,第1版の序文冒頭と,第2版への序文の中の「コペルニクス的転回」として有名な箇所を読むことにした。読む前に,取り敢えずカントが直面した問題を理解してもらうため,カントまでの哲学の状況をざっと説明した。デカルト以降の合理論の展開とロックからヒュームへの経験論の発展があったこと,それと並んでニュートン物理学が成立したこと。政治思想としてはロックやルソーの社会契約論に基づく市民革命の時代に入って来たこと。文学・芸術においてはゲーテやベートーヴェンと同時代であったことなどを,頭に入れてもらった。

先ず第1版への序文を読んでみた。最初から日常的にはあまり使わない「理性」「経験」などの言葉が当たり前のように使われていること,さらに初めて聞くような「ア・プリオリ」という述語に至っては,みなさん,面食ったようだ。そこで主宰者としては,これらの哲学用語をわかり易く噛み砕いて説明しないといけないのだが,何しろこちらの理解もおぼつかないので大変だ。読んだ部分の要約などはとてもできないので,日常的な意味とは違った意味で使われている言葉や「ア・プリオリ」というような初めて聞く言葉の意味の説明を幾つかまとめることで今回の報告とさせていただきます。

・「理性」…日常的には「彼は理性的だ」とか「理性的な行動」というふうに,人や行為の性質を示す言葉で,この例の場合は感情的という言葉と対比的に使われている。したがって感情的というのが「熱くなる」のに対し,理性的というのは「冷静である」と言われもする。日常的にはこのくらいの区別で十分だが,カントの場合は冷静であることによって何が遂行できるかの方が問題だ。つまり冷静であることによって「筋道を立てて考えることができる」ということが「理性的」という言葉の意味となるだろう。さらに理性を感性や悟性と区別するためにカントは様々な説明をしているが,ジャムでは簡単に「物事の原因を追究する能力」としておいた。「なぜと問う能力」と言っても良い。この意味での理性が起動力となって,感性に与えられた不定形の表象を一定の概念のもとに統一して一つの経験を成立させるというのが理性の働きの大まかな説明となる。

・「経験」…日常的には人が実生活で出会う事柄,あるいはその蓄積を示し,個人的なものと思われるが,カントにおける経験はもっと広く,人間ならだれでも持ち得る感覚的・知的情報である。「目の前にコップがある」「それにはビールが入っている」「飲むといい気分になる」など私たちはいろいろの感覚的・知的情報を持つが,経験は感性と悟性と理性がそれぞれ別個の役割をして成立する。感性は感官に与えられた感覚情報を時間・空間の中に定位させる。判断力はそのように定位された表象を純粋悟性概念(いわゆるカテゴリー)という枠組みに嵌め込んで判断を形成する。ここで初めて「目の前にコップがある」「それにはビールが入っている」という判断が可能になる。日常的には一々こういうことを意識してはいないのはもちろんで,ただ「目の前に美味しそうな飲み物がある」と思うだけだ。しかしカントが面白いのは「美味しい」とか「いい気分になる」という評価を単なる経験的判断にしておかないで,普遍妥当的な判断にするためには何が必要かと考えたことだ。カントはそういう評価に例えば原因の概念が関与していると考えた。何度もビールを飲んでいい気分になったからそう判断するだけでは普遍妥当性を持たず,これに原因・結果の関係概念を適用することによって普遍妥当的な判断になると考えた。この原因概念の適用にさらなる完全性を求めるのが,理性であり,どこまでも「なぜ,なぜ…」と問い続ける。そしてその答えを求めるために経験を超えたものにまで悟性概念を適用しようとする。カントが『純粋理性批判』で明らかにしようとしたのは,この理性の違法な適用によっては何も証明できないということだった。

・「ア・プリオリ」…ラテン語の原義は「より先に」という意味だが,哲学史的にはアリストレテス以来の伝統的意味がある。アリストテレスは「より先(プロテロン)」「より後(ヒュステロン)」を様々に区別していて,時間的な先後,能力の先後(つまり優劣),さらに感覚に即した先後,説明方式(ロゴス)に即した先後などが区別される。カントのア・プリオリはアリストテレスの「ロゴスに即した先」に近い。「時間的な先」ではなく,「論理的な先」とも言えるだろう。つまり人間の経験が成立するための前提条件として人間が予め持っているという意味で「前提」の「前」や「予め」という意味での「先」である。カントはそういう意味で,人間は時間・空間という感性の直観形式や,判断の枠組みとしての純粋悟性概念を「ア・プリオリ」に持っていると言うのである。

以上,ジャムで説明しなければならなかった言葉に改めてこの場で説明を加えることで第15回哲学ジャム+(プラス)の報告に代えさせていただきます。

次回第16回哲学ジャム@函館の開催予定は2月20日(火)です。一週間前になったらこのブログと北海道新聞「みなみ風」に案内を投稿・掲載してもらう予定です。

2018年1月5日金曜日

第15回哲学ジャム@函館開催のご案内

第15回哲学ジャム@函館の開催日程が決まりましたのでご案内します。

日時:1月13日(土)午後2時から
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は「哲学ジャム+(プラス)」として難しい(と言われている)カントに挑戦してみます。カントの『純粋理性批判』の一節を読み,その内容を理解するとともに,その哲学史的な意味も参加者のみなさんと一緒に考えてみたいと思います。参加費は無料ですが,会場を提供してくださっている「まるたまスクエア」のいずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めてご参加の方は下記:鎌田までご連絡ください。なお,いつもとは,曜日と開始時刻が違いますのでご注意ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)