今回は10月16日(火)午後6時半から「カポBAR in まるたまスクエア」で開催されました。
今回のテーマは,主宰者を含めて,今夜の参加者数名が出掛けた「詩人・吉増剛造講演会」の感想を軸に,詩と哲学の関係を巡ってということになるだろう。詩と哲学の対立については哲学という営みの成立に関わる問題としてプラトンが『国家』において周到な議論をしている。ジャムで話されたことでもないので,ここで詳述はしないが,この報告に関係する限りで説明を加えておく。先ずはプラトンが専ら文芸批判の対象としているのは「ギリシアを教育してきた」とも言われるホメーロスであること,次に批判の視座はイデア論にあること,である。批判の対象がホメーロスであるということは,ホメーロスの叙事詩が当時のギリシア人に対し生きる上での規範を提供していたということにある。『イーリアス』や『オデュッセイア』に描かれる英雄たちがギリシア人たちの模範となっていたということである。だから同じ詩とは言え,古代ホメーロスの詩と現代の吉増剛造の詩とはほとんど共通点がないと言ってよい。敢えて共通点を挙げるとすれば,詩によって喚起されるもの(ホメーロスでは英雄たちの活躍,吉増剛造では詩となって現れて来る以前の原初的な感動など)が特定の個別的なもの,あるいは私的なものであるということだ。例えばアキレウスの活躍を聴いた聴衆はそれを自分の模範として戦場ではそのように振る舞いたいと思うだろう。しかしそれはあくまで個別的な行動規範でしかない。一方吉増剛造の詩を読んで読者は,吉増剛造が体験した私的な感動を,詩を介して追体験する。この追体験は人によって様々であるほかなく,したがってそれぞれまた私的な体験となる。言葉は一般的なものだが,エクリチュールの人・吉増剛造は様々な表記を駆使して読者の追体験をさらに拡散して行くように仕立てている。エクリチュール(書くこと)とレシタシオン(朗誦すること)の違いこそあれ,歌われ・書かれた個別的・私的な体験は聴衆や読者の中でまた別の個別的・私的な体験となる。プラトンの文芸批判の目的はおそらくこのような閉鎖的な体験の領域に突破口を穿つことだった。イデアは例えば美の絶対的規範でありながら,その美の認識は個別的・私的であり得る。それゆえ美を巡っての問答・対話を成立させる根拠でもある。プラトンはこのような立場からホメーロスを初めとする詩人たちをその「理想国」から追放し,哲学の優位を主張した。
しかし私たちが住んでいる国はもちろん「理想国」ではない。そこでは詩を含めた,現在は芸術と呼ばれている営みは哲学とともに既成の見方・考え方に穴を穿つべく働き得るだろう。吉増剛造の講演会は面白かったが,何が面白かったかわからなかったという感想があった。しかしレシタン(朗誦する人)としての吉増剛造の講演の成否は聴き手に刺激を与えたかどうかにあり,面白かったという感想は講演が成功したということだ。その刺激が何であったのか,自分にとってどんな意味があるのかは今度は哲学の仕事かもしれない。その意味を探る試みをここでしてみたつもりである。その試みを今回の報告に代える。
次回の哲学ジャムは11月20日(火)の予定です。
0 件のコメント:
コメントを投稿