参加者の一人が,前日の市民オーケストラ定期演奏会に団員として参加しており,聴きに出かけた参加者もいたので最初はその話から始まった。演奏する側としてはフランスもの(その日はフォーレの曲が2曲演奏された)の難しさ,聴く側としては抽象的な音楽をどのように聴けばいいのか,などかなり専門的な話になった。音楽鑑賞というのは作曲家の作曲過程を追体験することだという考えをMさんが紹介。この考え方は芸術鑑賞一般に当てはまると思うが,追体験と言ってもいろいろありうる。例えば作曲家になろうとしている青年の追体験は作曲理論に基づいた追体験に傾き,素人のそれは作曲家の人生を知ってその折々の体験を音楽に読み取るというものになりがちである。しかしそのような鑑賞はあくまでも間接的な聴き方になりはしないか。われわれがコンサートや美術館で直接見たり聴いたりしているものとの交感が第一なのであって,分析はその後でよい。「交感」というのは対象と主体の関係であり,演奏家と聴く側の関係である。その関係において「追体験」とはどういうものになるか。追体験という概念はあくまでも他者の体験が先にあって,それを後で別人が体験するという図式になっている。しかし作曲家の体験とは何か。作曲家の体験や意図が作曲され,演奏されるまでには,2重・3重の過程(翻訳)を経なければならない。自分の頭の中の音を楽譜に記譜可能な仕方に翻訳する(このの段階でもさらにいくつかの下位の段階に細分できるかもしれない)。その楽譜を見て演奏家が解釈し,音楽に翻訳する。さらに翻訳された音が音楽として鑑賞者に聴かれ,最終的な追体験となる。このような複雑な過程を経て得られる追体験とは何か。作曲家の原体験からは無限にかけ離れているようにも思われる。この図式は「交感」という概念には当てはまらないだろう。交感においては対象と主体という区別も本来ないのかも知れない。コンサート会場では確かに演奏する側と聴く側とが区別されるが,そこで弾き・聞かれる「音楽」は一つの融合したものになっている。響く音は一つの融合体であるが,弾く側も聴く側もそれぞれの翻訳をしているはずである。作曲家が指定した楽譜という縛りの中での演奏の自由と聴き方の自由。人間は何という複雑な娯楽を持っているのかと私などは感嘆する。
以上はジャムの後で考えたことだが,ジャムの時にはKさんが哲学と音楽については何か関係があるのかと質問されたので,古代のピュタゴラス派の話を少しした。宗教的な枠組みの中で数学の一部門としての音楽を魂の浄化の手段と考えたこと,数と事物の対応関係を考えたこと,数自体の神秘的な関係に魅せられていたことなど。他に音楽と関係の深い哲学者としてはショーペンハウアーやニーチェがいるが話すほどのことは知らないので指摘するだけだった。
他にもいろいろな話が出ましたが,報告としては以上とさせてもらいます。
次回の予定は10月22日(火・祝日)の予定です。
以上はジャムの後で考えたことだが,ジャムの時にはKさんが哲学と音楽については何か関係があるのかと質問されたので,古代のピュタゴラス派の話を少しした。宗教的な枠組みの中で数学の一部門としての音楽を魂の浄化の手段と考えたこと,数と事物の対応関係を考えたこと,数自体の神秘的な関係に魅せられていたことなど。他に音楽と関係の深い哲学者としてはショーペンハウアーやニーチェがいるが話すほどのことは知らないので指摘するだけだった。
他にもいろいろな話が出ましたが,報告としては以上とさせてもらいます。
次回の予定は10月22日(火・祝日)の予定です。