2016年7月20日水曜日

第1回哲学ジャム@函館報告

第1回哲学ジャム@函館の模様を報告する。第1回ということで私から哲学ジャム@函館設立の経緯を話し,簡単に自己紹介をした後で,最低限のルールを説明した。ルールの最後にテーマはその都度決めるということだったので,テーマの設定に入ったが,これが思っていたよりも難しい。と言うか,哲学のテーマということでみなさん難しく考えてしまったようだ。第1回なのでその場でテーマを考えることは難しいとは思っていたから,予めいくつかテーマは考えていた。「哲学とは何か」「哲学ジャムとは何か」などが初回のテーマとしてはいいのではないかと考えていたことを話し,「哲学のイメージ」というテーマで話すことになった。参加者は12名(女性7名,男性5名)。8名はこれまで哲学の勉強を通じて知っていたメンバーだが,4名とは哲学については初めてお話する。まるたまスクエア自慢のピロシキやボルシチをいただきながら話し始めた。

先ずMさんの哲学のイメージを話してもらう(以下カッコ内は発言者イニシャル)。

(M)科学は数式や記号を使ってアプローチするが,哲学は言葉を使ってアプローチする。

(Kw)アプローチすると言うと目標があることになるが,その目標とは何か。

(鎌田)科学なら様々な自然現象についての疑問の解明ということになるだろう。

(Kw)私の哲学のイメージは「人はどう生きるべきか」を探求するもの。

(M)その場合科学のように一つの答えというものがあるのだろうか。

(鎌田)一人一人の行為を具体的に指示する答えというものはないだろうが,カントが考えたような普遍的な命令という仕方で一つの答えというものを考えることは可能だろう。

(Kr)一つの答えに対しては必ず別の答えを考えたい。白という人に黒や赤と言える社会がいい。

(鎌田)それは表現の自由の問題だが,哲学としては全員が白という意見を持っているときに他の意見の可能性をどう確保するかという問題になるのではないか。つまり全員が間違っているという可能性をどうしたら考えることができるかどうかという問題になる。

このようなことを話し合っているうちに,話は哲学と言葉の関係性という問題に移って行った。その際Kwさんが次のような質問をした。

(Kw)人里離れて自給自足している人が自分なりの生き方を持っているとしたら,その生き方は哲学と言えるのか。私は哲学だと思う。

この問いに対しては大方の人がそれを哲学と言っていいという意見だった。私(鎌田)は哲学をかなり狭い意味で考えており,その原型はソクラテスの問答にあると考えているので他者との言葉のやり取りがない場合は哲学とは考えない。このような狭い意味での哲学観に対してはSさんも宗教的立場から違和感を表明された。このような「哲学」というものに対する考え方の違いはあるけれども,その違いを話せたことはこのような場があればこそという意見にはみなさん同意してくれた。期せずして哲学ジャムの存在意義に触れた形になった。

以上のほかに「哲学の身体性」(Kw),「もっと軽快な思考」(Kr),「世界や人生を知って行く過程としての哲学」(Ks)いうような話も出たが,これらはあまり展開できなかった。今後の課題としたい。

全体として2時間ほどのセッションだったが,第1回としてはよく話ができたと思う。テーマはもう少し気軽に提案できるものでいいのだが,終わりかけにはやはり次のテーマを考えるのが難しいという話がちらほら聞こえてきた。次回は2か月後の9月20日(火)午後6時半からの予定。また改めて当ブログで予告する。