2017年8月29日火曜日

第10回哲学ジャム@函館の報告

 第10回は「哲学ジャム+(プラス)」としてデカルト『省察』第二省察末尾のいわゆる「蜜蝋の分析」を読み,哲学的思考の醍醐味を味わってもらうという企画。当該箇所は蜜蝋という具体例を巡って,わかり易そうに書かれているのだが,内容は難解だ。以前読んだときにとても印象的な箇所だったのでもう一度ジャムのみなさんと一緒に読んでみようと考えた。デカルトが蜜蝋という具体例を持ち出したのは,一旦常識的なレベルまで戻り,彼がそこまでに到達していた「考える私」の確実性を,その地点から出発して再び捉え直すためであった。しかしその捉え直しのプロセスにおいて単なる感覚であったもの(見ること)や想像の能力に思惟作用が加わり,「見ると考える」や「…と判断する」といったように,感覚や想像が思惟の一形態として捉えられるようになる。デカルトは「蜜蝋そのものを見る」というような日常的で曖昧な物言いと比較しながら,感覚によっては蜜蝋そのものを捉えられないことを示し,実体という言葉を一度も使わずに,実体(この場合は蜜蝋そのもの)を捉えることができるのは精神だけであることを示そうとしている。
 第二省察の第10節から最終節までを読みながら,ざっと以上のような説明を加えた。哲学ジャムらしく,途中でいくつか解釈のポイントとなる点では私から質問を投げ掛けた。「想像によって無数の変化を辿ることができない」とはどういうことか。「延長が大きくなる」と言われているが,実体の第1の属性としての延長は変化しないものではなかったか。衣服と帽子の下に自動機械が隠れているにもかかわらずそれを人間そのものと判断することができるのはなぜか。などなど。ここから例えば古代のゼノンのパラドクス(アキレウスと亀)に話が及んだり,デカルト哲学の基本概念(延長実体と思惟実体),さらにチューリング・テスト(コンピュータと人間を区別するテスト)に話を展開することも可能であったが,今回は示唆にとどまった。
 最後に参加者の疑問を2つ。Chさんの疑問として,このような考察を読んでも,それを日常的に話す相手がいない。少なくともこの哲学ジャムなどの場では話せるが,それでいいのかという疑問が語られた。(以下私)確かに哲学的な議論をする場というのは日常的にはほとんどないだろう。そのためにこの哲学ジャムもあるのだが,どちらかと言えば哲学ジャムは非日常だろう。日常的には哲学的な議論というのは専ら自分との対話という形でなされると考えた方がいい。今日読んだデカルトの『省察』も自問自答の形を取っているところが多い。しかしデカルトは『省察』を出版する前に当時の哲学者たちに読んでもらって反論を受け,反論とともにそれに対する答弁を付して出版している。哲学ジャムでの議論も,自問自答もいずれ他の批判に曝される覚悟が必要ということは言っておきたい。
 Tさんの疑問として,哲学ジャムでの議論と,自分が読書や講演会などで得た知識とをどうつなげたらいいのか悩んでいる。(以下私)自分の勉強とここでの議論との落差が大きいのだろうけど,先ずはその落差の認識が大事かもしれない。自分の中にうまく折り合わない考えがあるのはむしろ普通だろうが,それが明確に矛盾した考えならばどちらを取るか検討が必要だろう。この検討もやはりソクラテスの方法によるしかないように思う。つまり自分の考えを他者の考えと擦り合わせて吟味すること。哲学ジャムがそういう場であることは言うまでもない。
 次回は9月19日(火)午後6時半からの予定です。

2017年8月13日日曜日

第10回哲学ジャム@函館のご案内

第10回哲学ジャム@函館の開催日程が決まりましたのでご案内します。

日時:8月19日(土)午後2時から
場所:元町「まるたまスクエア」(0138-76-1379)

今回は「哲学ジャム+」として前半は一人の哲学者の著作の一部の読書会とし,後半にその内容について話し合うという企画です。誰を読むかは当日のお楽しみです。いつものように参加費は無料ですが,読書会用のテクストコピー代の実費をいただきます。また「まるたまスクエア」のいずれか一品を注文していただく必要があります。収容人数に限りがありますので,初めて参加する方は下記:鎌田までご連絡ください。

「哲学ジャム@函館」主宰:鎌田雅年(080-3117-2990)