2020年3月8日日曜日

第40回哲学ジャム@函館の報告

第40回は2月18日(火)午後6時半から「カポBAR@まるたま小屋」で開催されました。中心的な話題は「国防」。国防というとすぐに自衛隊や日米安全保障条約をどう考えるかという話になってしまいがちであるが,哲学的に重要なことは何かと考えてみると,国の何を守るのかについては明確でないように思われた。国としての要件というのは中学でも「国土・国民・主権(政府)」と習う。この要件から考えると,政府が国土や国民を守るというのはすぐわかる。最近政治家がよく「国民の命と生活を守る」ということを口にするが,敢えて口にするまでもなくそれが政治家の責務である。当たり前のことだ。問題は「国民の命と生活」の内実は何かということだ。憲法では「健康で文化的な最低限度の生活」と謳われているが,「健康で文化的」な生活とは何か。病気にならないように適度な運動をし,食事にも気を付け,たまには美術館やコンサートに行ったり,スポーツ観戦をしたりするというのが「健康で文化的な」生活なのか。一般にはそのような生活が守られるべき生活なのかもしれない。しかしたまたま現在新型コロナウイルスで様々な方面での自粛が要請されているときに,そのような意味での「生活」は制限されている。政府の対策の拙さがそういう不自由な状況を作り出したのだが,われわれ国民の方はこのような不自由な状況に置かれたときにこそ,常日頃の生活というものを反省してみる良い機会だと思う。「健康」とは何か,「文化的」とは何か,と日頃考えておかないと必要もないのにあわててマスクやトイレットペーパーを買いに走ることになる。「国防」というのは古人も言うように国民の徳性を育み・守ることでなければならない。国民の命と生活を守ると言うのであれば,国民に不自由な生活を強いるような無策な政府は要らない。

以上私見も交えた報告になってしまったが,結局3月8日の時点で新型コロナウイルスの感染状況はまだまだ収まりそうもないので今月の哲学ジャムは中止としました。来月4月は21日(火)に開催予定ですが,どうなることやら。

2020年2月7日金曜日

第39回哲学ジャム@函館の報告

第39回は1月21日(火)午後6時半から「カポBAR@まるたま小屋」で開催されました。話題はいくつか提案されたが,なかなか哲学的に展開できなかったので,報告としてまとめられませんでした。

次回は2月18日の予定です。

2020年1月1日水曜日

第38回哲学ジャム@函館の報告

12月は17日火曜日午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。話題は次の通り。

1.元農水事務次官熊沢被告の殺人について。
2.死刑について。
3.安楽死について。
4.動物園の高齢動物の延命について。

1.についてはちょうど東京地裁の判決が出たところだったので,やはり最初に話題になった。実刑か執行猶予付きかについてはあまり意見の違いはなかったが,このような家庭状況においては殺人も認められるか否かについては意見は分かれた。どんな状況であろうと殺人はいけないという者,場合によっては容認せざるを得ないという者。前者の考えは死刑廃止論へと向かい,2.の話題に移った。

2.の死刑についての考え方は加害者の立場と被害者および被害者の遺族などに寄り添った立場の違いによって別れるようだ。加害者の人権を擁護する立場からは矯正を目的とする死刑廃止論が生まれ,被害者側の心情を顧慮する立場からは応報的な意味で死刑を認める主張が生まれる。後者の死刑容認は1.の殺人容認と通底している。人が人を殺すということは同じだからだ。カントの道徳論から見ると,自殺は明確に禁止されているが,他者を殺すことも他者の自由を奪うという意味で許されないのではないか。カントの道徳の根底にある意志の自由をあらゆる理性的存在者に認める限り死刑も認められないと思われる。

3.以上の議論から安楽死へと話題が移った。今安楽死を認めている国はオランダ・ベルギー・スイスなどキリスト教圏でもプロテスタントの多い国のようだ。宗教的なインセンティヴ(誘因)がどのくらいあるのかわからないが,意志の自由との関係でみると個人の選択の権利を究極まで認めるということのようだ。しかしできるだけ宗教的な議論を持ち出さないカントでさえ自殺禁止は人間の完全義務としている。カント的な意味で道徳的であろうとすることはとても難しいことであり,非常に苦しい病気を患っているときには安楽死を望むかもしれない。しかし自分がそういう状況に置かれたときに何を選ぶか,そこにその人の道徳性(人格)が現れることは間違いない。

4.次に人間の安楽死の議論から動物の安楽死の話題に移った。日本の動物園では高齢の動物でもできるだけ生かそうとするのに,欧米の動物園関係者は人間の世話を受けなければ生きられなくなった動物は安楽死させるべきだとい言うが,これは動物保護という観点から見てどうなんだろうかという疑問が出された。人間にも安楽死を認めるならば,動物にも認めて良いようにも思えるが,動物には上で述べたような意志の自由があるとは思えない。自由意志がないならどう扱っても良いか? キリスト教圏では肯定的な答えが返って来そうだが,「山川草木悉皆成仏」という言葉のある仏教圏では否定的だろう。だから日本では動物園でも安楽死をさせるには抵抗があるのだろう。

以上のような問題を宗教的な前提なしに考えたいというのが哲学ジャムの立場だが,それがなかなか難しい。特に日本では仏教や神道が日常化し,常識となってしまっているので,そういう常識をそぎ落とすのはなおさら難しい。先ずはそういう常識の根底に宗教的な思い込みがないかどうかを吟味する作業が必要だろう。その作業がソクラテスの吟味(エレンコス)に他ならない。

次回は翌年1月21日(火)の予定。

2019年11月20日水曜日

第37回哲学ジャム@函館の報告

今月は19日(火)午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回は「哲学ジャム+(プラス)」として西田幾多郎の『善の研究』の一部を読んで意見交換をしました。西田自身の勧めに従い,第2編「実在」第1章「考究の出立点」を読んでみました。

第1章では「考究の出立点」として西田自身の哲学的立場を哲学史の中に位置づける試みがなされているので,確かに比較的理解しやすい。批判の対象を明示していないところもあるので,その辺りを説明しながら読み進めた。ここで彼の主張をまとめてみると次のようになるだろう。

1.世界観と倫理学とは切り離せない。
2.それらの知は一つである。
3.これまでの哲学は経験か思惟作用のどちらかから出発していたが,どちらも不十分。
4.経験も思惟作用も意識現象である。
5.知ることのできない対象を仮定せず,直接経験から出発しなけければならない。

一応第1章を読み終えたところで時間切れになってしまったので,残った疑問点は次回にまた考えることにした。

次回は12月17日(火)の予定です。

2019年11月8日金曜日

第36回哲学ジャム@函館の報告

第36回は10月22日(火)午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回も通常の哲学ジャムでしたが,話題が拡散して報告としてまとめることが出来ませんでした。

次回は11月19日の予定です。

2019年9月25日水曜日

第35回哲学ジャム@函館の報告

第35回は9月17日(火)午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回も様々な話題について意見交換が行われましたが,後で考えたことも含めて報告します。

参加者の一人が,前日の市民オーケストラ定期演奏会に団員として参加しており,聴きに出かけた参加者もいたので最初はその話から始まった。演奏する側としてはフランスもの(その日はフォーレの曲が2曲演奏された)の難しさ,聴く側としては抽象的な音楽をどのように聴けばいいのか,などかなり専門的な話になった。音楽鑑賞というのは作曲家の作曲過程を追体験することだという考えをMさんが紹介。この考え方は芸術鑑賞一般に当てはまると思うが,追体験と言ってもいろいろありうる。例えば作曲家になろうとしている青年の追体験は作曲理論に基づいた追体験に傾き,素人のそれは作曲家の人生を知ってその折々の体験を音楽に読み取るというものになりがちである。しかしそのような鑑賞はあくまでも間接的な聴き方になりはしないか。われわれがコンサートや美術館で直接見たり聴いたりしているものとの交感が第一なのであって,分析はその後でよい。「交感」というのは対象と主体の関係であり,演奏家と聴く側の関係である。その関係において「追体験」とはどういうものになるか。追体験という概念はあくまでも他者の体験が先にあって,それを後で別人が体験するという図式になっている。しかし作曲家の体験とは何か。作曲家の体験や意図が作曲され,演奏されるまでには,2重・3重の過程(翻訳)を経なければならない。自分の頭の中の音を楽譜に記譜可能な仕方に翻訳する(このの段階でもさらにいくつかの下位の段階に細分できるかもしれない)。その楽譜を見て演奏家が解釈し,音楽に翻訳する。さらに翻訳された音が音楽として鑑賞者に聴かれ,最終的な追体験となる。このような複雑な過程を経て得られる追体験とは何か。作曲家の原体験からは無限にかけ離れているようにも思われる。この図式は「交感」という概念には当てはまらないだろう。交感においては対象と主体という区別も本来ないのかも知れない。コンサート会場では確かに演奏する側と聴く側とが区別されるが,そこで弾き・聞かれる「音楽」は一つの融合したものになっている。響く音は一つの融合体であるが,弾く側も聴く側もそれぞれの翻訳をしているはずである。作曲家が指定した楽譜という縛りの中での演奏の自由と聴き方の自由。人間は何という複雑な娯楽を持っているのかと私などは感嘆する。

以上はジャムの後で考えたことだが,ジャムの時にはKさんが哲学と音楽については何か関係があるのかと質問されたので,古代のピュタゴラス派の話を少しした。宗教的な枠組みの中で数学の一部門としての音楽を魂の浄化の手段と考えたこと,数と事物の対応関係を考えたこと,数自体の神秘的な関係に魅せられていたことなど。他に音楽と関係の深い哲学者としてはショーペンハウアーやニーチェがいるが話すほどのことは知らないので指摘するだけだった。

他にもいろいろな話が出ましたが,報告としては以上とさせてもらいます。

次回の予定は10月22日(火・祝日)の予定です。

2019年8月24日土曜日

第34回哲学ジャム@函館の報告

第34回は8月20日午後6時半より,「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。今回も様々な話題がありましたが,後で考えたことも含めてそれを列挙しておきます。

1.NHK「100分de名著」の「小松左京」についてMさんが感銘を受けたとのことでしばしその話になりました。Mさんが特に感銘を受けたのは『虚無回廊』とのことで,私は録画はしていたがまだ見ていなかったのでジャムの後に全4回を見た。私がよく読んだSF作家は海外ではR.A.ハインラインやJ.P.ホーガン,P.K.ディック,国内では筒井康隆ぐらいのものだったので,小松左京は読んでいなかった。そのうちにSFよりも哲学の方が面白くなってしまった。『虚無回廊』にAEという「人工実存(Artificial Existence)」が出て来るが,「実存」という限りでは人生の一回性が前提となるはずであり,さらに人間の肉体性が必然的な前提である。その限りではアンジェラEという人工実存にも「実存」というには足りない部分がある。私は録画を見ていなかったのでその場でこういう展開にはできなかったが,次回でまた話してみてもよい。

2.ちょうど初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」が報道された直後だったので,昭和天皇が何を考えていたかということにも話題が集中した。NHKの特集は,明治憲法下での君主が,昭和新憲法の下で象徴となることへの困難が端々に窺われる内容であった。その筋の専門家は別として一般には昭和天皇の肉声が聞けた気持ちがしてよかったと思う。意外に率直な物言いをしていたのだなとも思った。田島の記録が残ったのには,国の関与ではなく,その記録を残しておかねばならないと考えた身内の努力があったという話は,現在の政府の資料管理の杜撰さと比べて雲泥の差がある。こういうものは市民の努力に任せているのではなく,国が徹底的に管理して残さなくてはならない。

3.小中学校の教科書に古典が減っているという話。私は現代ものは読まなくてもいいというくらいの古典主義者なので困った流れだなと思った。単に古典的世界に浸かっていればいいというのではない。現代の情報は否応なしに入って来る。Kさんはそういうものに振り回されると言う。そういうときに古典は現在の自分を相対化するのに役立つ。外国語もその相対化に役立つが,会話程度で相対化はできない。外国語の学習を通して文化や考え方の違いを知ることが必要だ。ただし相対化されるだけでは,「いろいろあっていいじゃないか」という立場にとどまるだけかもしれない。しかしそこで初めて何がいいのか悪いのかを考える準備ができたということである。ここから「自分の思索」が始まると言ってよい。その自分の考えを鍛えるのが,例えばこの哲学ジャムという場である。

この他にもいくつか話題があったが,まとめとしては以上にしておく。

次回は9月17日(火)開催の予定です。