今回のテーマは「人はなぜ熱狂するのか」。ワールドカップは日本代表の予想外の活躍で寝不足になるくらいに盛り上がったようだが,ほとんどの試合を見てしまった私も含めて「たかが」ゲームになぜ私たちは熱狂するのか。サッカーに限らずスポーツ観戦にはそのような「熱狂」が伴う。スポーツ観戦以外ではどうだろうか。いわゆる「追っかけ」の心理は「熱狂」とは違うのだろうか。スポーツのチームを応援する場合と特定の選手を応援する場合とでは違うように,AKBのファンとそのなかの特定の人間のファンとでは違うだろう。特定の選手やアイドルを応援の対象とする場合はファンの側の好みや興味によって感情移入や独占欲の対象となる。スポーツチームやアイドルグループの場合,あるいは日本代表の場合には嗜好や趣味,地域性などが応援の強度に関わって来るだろう。ここまでスポーツの応援やファンの心理に話が行ってしまったが,話を「熱狂」ということに戻すと,それは現場に行って観客となるときの「熱狂」を考えてみるのが本筋ではないかということになった。
大勢が集まって何かに熱狂するというと,洋の東西を問わず,お祭りを挙げることができる。2002年の日韓共同開催のワールドカップの際に,神戸で行われたスウェーデン対ナイジェリアの試合を見に行ったが,まさにお祭りだった。
古いところではギリシア悲劇もまた祭祀の一環として開催されたものであり,アリストテレスが『詩学』でその効用について次のように言っている。
「あわれみと恐れをひきおこすことによって,その種の諸感情の浄化(カタルシス)を達成する」(藤沢令夫訳)
「カタルシス」は「浄化」や「吐しゃ」など解釈によって訳は異なるが,心中にわだかまったものを吐き出すか,浄化するかの違いであろう。
近いところでは,ニーチェがアッティカ悲劇をアポロン的造形芸術とディオニュソス的音楽の融合と見た『悲劇の誕生』でベートーベンの第九交響曲を次のように評している。
「ベートーベンの『よろこび』の頌歌を一枚の画に変えてみるがよい。そして幾百万の人が恐怖におそわれて塵の中にひれふす時も,ひるむことなく自分の想像力振い立たせてみるがよい。そうすればディオニュソス的なものに近づくことができるのだ。今や奴隷は自由人となる。今や,やむをえぬ必要や気まぐれや「厚かましいしきたり」が人間同士のあいだに定めた,一切の硬直した憎むべき制限は破れる。今や,宇宙調和の福音に接して,すべての人はめいめい,その隣人と結びあい,和解し,とけあっていると感じるばかりでなく,まるでマーヤのヴェールもひきちぎれてしまって,ぼろぼろになったまま,神秘的な根源的一者の前にひるがえっているすぎないかのように,ただ一体と感じるのである。歌と踊りによって,人間はより高い共同体の一員であることを表明する。彼は歩むことや話すことを忘れてしまい,踊りながら空高く舞いあがろうとする。その身振りには魔術のとりこになったことがあらわれている。」(秋山英夫訳)
「マーヤのヴェール」とはもともとはウパニシャッドで「個体化の原理」を示す言葉を,ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』の中で用いたようで,ニーチェはそれをここで援用している。つまり「第九」の描く世界は人々が個体化の原理を破り,より高い共同体の一員として一体となる理想世界であるというのである。しかし忘れてならないのはその状態が「陶酔」と「忘我」によって達成されるということだ。サッカースタジアムや野球場で熱狂的に応援している人々はまさにそのようにして個体化の苦の世界を忘れ,他者との一体感の中で陶酔しているということになる。そしてこの陶酔状態はおそらく脳の中に快感物質を放出しているだろうから,再びその状態を味わおうとする「魔術のとりこ」になっていると言ってよい。
ニーチェの話はここで補足したものだが,今回はほぼ以上のようなことが話された。
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