第16回は異常な積雪と冷え込みの中,開催されましたが,車の事故などで来られなかった方もあり,私も入れて6名でした。前回の報告を見ながら,さらにその説明をしたり,ちょうど冬季オリンピックが開催中だったので「勝つ」とはどういうことかについて考えてみました。「勝つ」についてはその場ではうまく説明できないことがあったので,ここで整理してみる。競技者は「他者に勝つ」ことを直接の目的にするだろうが,そのためには「自分に勝つ」ということが必要になることは羽生結弦選手の例を見てもわかる。「自分に勝つ」という場合,勝つのも負けるのも自分であるが,負ける自分は様々な要因(練習不足・会場の雰囲気・勝ちたいという気持ちの弱さなど)で実力を出せない状態になっている。他方,勝つ自分はそういった要因を乗り越えているという自信を持っている。最終的には自分を信じることができるということが「自分に勝つ」ということになるだろう。
ところで哲学的には古来「意志の弱さ」ということをどう考えるかという問題があった。最初にこの問題に取り組んだのはプラトンだと思われるが,プラトンは『プロタゴラス』篇で「悪いと知りながら快楽に負けて悪をなす」という言説に含まれる矛盾を分析している。対話者ソクラテスは快楽主義的立場に立って「善=快,悪=苦」と考えると,先の言説は「悪いと知りながら善に負けて悪をなす」と言えるが,結果的に悪を行うのだから比較される善はその悪より弱いのに,その弱い善に負けるというのはおかしな話だというような議論をする。さらに善悪を快苦に置き換え「苦と知りながら快に負けて苦をなす」という方は,結果的に苦を身に受けたのだから快よりも苦が大きかったのに,目前の快の方が大きく見えたために快楽計算を誤ったのだと言う。つまり「意志の弱さ」と言われる現象は快楽の計量術を持たないという一種の無知に基づく現象だと結論する。『プロタゴラス』篇の時点でプラトンにとって「意志の弱さ」という問題は疑似問題ということになる。しかし「ソクラテス以上の知者はいない」と言われたソクラテスが無知の立場に立つ以上,われわれが知を標榜することはできない。「悪と知りながら」と言えない以上,また正確な計量術を持たない以上,「意志の弱さ」とはわれわれ人間の現実である。アリストテレスはその現実を見据えた考察を『ニコマコス倫理学』で展開しているが,ここで紹介する力は私にはない。
この日の哲学ジャムでは最後に「終活」の話になったが,それも「始末しなければならないとわかっているのだが始末できないものがある」というような話になった。日常の至る所で同じような言説が語られている。意志というものが脳の物理的な反応よりも後に生じるという研究もあり,その場合われわれは盲目的な身体的意志を後から意識化していることになる。そうすると「始末しなければならないとわかっている」のは幻想,あるいは後考えであり,始末しないのを選んでいるのが本当の意志ということになるのか? それについてはまた考えてみたい。
以上第16回の報告とします。次回は3月20日(火)の予定です。
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