今年最後の哲学ジャムの模様を報告します。
以前絵本の話をしたときにShel Silverstein『大きな木(The Giving Tree)』を村上春樹が新たに訳したと聞いた。その本の旧訳(本田錦一郎)と新訳(村上)を参加者が持って来てくれたのでみんなで回し読みしながら内容について,訳について話してみた。みなさんは本田訳がいいと感じていたようだが,私は村上訳の方がいい。英語原文に忠実ということもあるが,感情過多にならない文体の方に好感が持てる。内容については,「与える行為」をどう解釈するかに議論が集中した。木が自分を切り倒してカヌーを作らせ,木はそれで幸せだったとした後で,「本当にそうだろうか」と疑問に訳した本田訳と「そんなはずはない」と否定した村上訳とを比較すると,村上訳の方がシルヴァスタインの主張が明確に出ている。与え尽くして切り株としてしか残らなかった木が「幸せなはずがない」とすると彼女(木は原文ではshe)の「与える行為」とは彼女自身にとって,あるいは少年にとってどんな意味を持っていたのか。ただ与えることしかしなかったため少年は駄目な大人になってしまった。与えるという行為を母性愛の表れと見る場合,そのような無条件的な愛は子供のためになるのか。与える側の木にしても,与えることによって何らかの喜びを得ている(「それで木は幸せだった」)のだから,一種の自己満足であり,無償の愛とは言えない。等々,いろいろ意見が出された。たまたま今年のNHKの大河ドラマが『西郷どん』だったので西郷隆盛の無私の精神との比較もなされた。「大きな木」と同じように,将来の日本のために私利私欲を捨てて働いたが最後は逆賊として死んだ西郷もやはり幸せだったはずが「ない」のだろうか。
すべてを与えた木が「幸せなはずがない」と言うとき,その幸せの内容はどのようなものが想定できるか。自分に喜びのほか何も残らないのは幸せではないのか。では何が残れば幸せなのか。難しい。一方,自己満足的な喜びさえあれば幸せなのだとした場合,西郷も幸せだったと言えるだろう。しかしその場合その幸せは自分だけの善であり,木であれ,西郷であれ,それぞれの行為の及ぶ範囲すべての善とは言えない。木の与える行為が少年にとっても無条件に善とは言えない。西郷の行為も然り。
『西郷どん』では西郷の女性との関係もかなり丁寧に描かれていた。ドラマではその時代のそれぞれの女性としての強さが描かれていたと思う。男女に平等に接した(らしい?)西郷をもってしても有能な女性を活用することができなかったのは時代的に仕方がないとしても,現代の日本社会はなぜ女性を十分に活用できないのか。外国人を労働力として活用する前に国内の女性の労働力を活用すべきではないか。女性を十分に活用できない社会で外国人を十分に活用できるとは思われない。
概ね以上のような意見が交わされました。次回の開催予定は1月15日(火)です。
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