今回は4月16日(火)午後6時半から「カポBAR@まるたまスクエア」で開催されました。主宰者を含め6名の参加がありました。以下,その模様を報告します。
Ksさんが文芸春秋5月号の東畑開人氏のエッセイ「深層くん,さようなら」をコピーしてきてくれたのでそれを読むことから始めた。その内容は大まかに次の通り。
かつて人間の心理を理解するために想定された「深層」は現代思想によって駆逐され,単なる動物だけが残った。深層と表層の区別はなくなり,「分人」という概念が現れた。男・父親・サラリーマン・ゴルファー・料理人という分人が一個人に同居しているという多重人格的な人間観だが,それらの分人を統一する「本当の自分」というものは想定しない。しかし「本当の自分」がないために不安を感じる人間もいて,そういう人はやはり深層的な「本当の~」を求めてしまうのではないか。
Mさんは「分人」という人間の捉え方がよくわからないと言う。個人に水平に切れ目を入れれば表層と深層が生まれるが,縦に切れ目を入れれば裂けるチーズのように個人は「バラバラにほどける」というのがわからないと。Mさんは恐らく,そのバラバラの個人を俯瞰的に見ているのでなぜバラバラになるのかという疑問だと思ったが,もしその人の全体像(これこそ本当のその人とも言えるが,そのような理解は放棄されている)を知らない場合,分人の部分的な総合像はその人の全体像にはならないし,知られていない分人は単に別人であろう。つまり樽を一個の樽としているタガが存在しないのだ。
哲学は現実を理解するために様々な「深層」や「超越」を想定してきた。しかし理性の超越的な適用はカントによって斥けられた。それでもそのような超越的な存在の想定は絶えることがない。それは理性という能力の本質に属する特性であることもカントが指摘したところである。先のエッセイでは「深層くんは…親密性に棲まう」と言っているが,人間が生きることに親密や安心を求める限り,超越的なものは生き延びるだろう。ニーチェはそのような人間の生き方を批判したと思われる。次回哲学ジャムはその点を考えてみるために「哲学ジャム+(プラス)」としてニーチェのミニ読書会をした上で意見交換をする予定。
次回は5月14日(火)午後6時半から「カポBAR@まるたまスクエア」で開催予定です。
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