前回の「安楽死」というテーマは「人間とは何か」という問題に突き当たったところで終わった。それで今回はそこから話を始めようと私から提案し,前回の報告の最後に紹介した石黒浩の「最後の講義」の話をして議論の参考にしてもらった。「人間はロボットになる」というかなり衝撃的な結論なのだが,その点について自分はロボットになりたいかと尋ねてみた。みなさんなりたくないという意見だったが,その理由は様々だ。Msさんは人間はロボットみたいに整然と考えたり,行為したりしないのではないか。もっと迷ったり,変節したりするのではないか,という意見。また多かったのは,人間には感情があるが,ロボットにはないという理由。以上の理由からわかるのは感情や迷いなど,どちらかというと非理性的な部分をみなさんは「人間らしさ」として捉えているということだ。しかし昔から人間を動物から区別するのは,言葉を話したり,論理的に考えたりできること,つまり理性的な能力と考えられてきた。プラトン『プロタゴラス』の中の「プロタゴラスの大演説」でプロタゴラスは,プロメテウスが火と技術を人間にもたらし,さらにゼウスが政治の技術を与えたと言う。この政治術の習得には個人差があり,自分を含めたソフィストはその教育を助けるのだと彼は主張する。政治術あるいは徳という点に関してどんなに劣った人間でも動物よりはずっと優れているとも言う。プロタゴラスは技術あるいは徳を教育可能とみているが,その点はソクラテス・プラトンも同様で,極めて論理的な作業を伴うと考えられている。ただプロタゴラスとプラトンとはその教育観が全く異なるということだけは断わっておく。このように人間の人間たる所以を理性あるいは知性に求めることの究極にロボットという在り方があると石黒は考えているようだ。再び「人間とは何か」という問題に戻ったが,Mfさんは当初にロボットの定義は何ですか,という疑問を呈していた。ロボットの定義は人間の定義と裏表になると考えていたが,つまりロボットの定義に当てはまらなければ人間であり,人間の定義に当てはまらなければロボットということになると単純に考えていたが,どうやらそうも行かないらしい。理性的な能力を完全に遂行できる人間は一見ロボットのように見えるかもしれないからだ。かつてストア派の賢者の理想とはそのような不動心を持った人間であった。この哲学ジャムに参加しているみなさんはしかし,むしろ人間の感情や一種の弱さに人間らしさを見ている。この人間観の違いは容易に埋められないようだ。あるTV番組では感情も遺伝的な蓄積の結果だとすると,時間はかかるかも知れないが,ディープラーニングによってロボットも感情を見につけることができるかも知れないという話をしていた。しかしそれは人間に近づくことではあるとしても,ロボットにとっていいことなのかどうかわからない。われわれ人間が感情によってどれだけ苦しむかを考えてしまう。以上,今回のまとめとします。
次回は11月21日の予定です。
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